Vaccaじゃないの
小暮 太郎
ここ最近、何かとワクチンの話題が多い気がする。コロナのワクチンはもちろんのこと、インフルエンザ・ワクチン、65歳以上の肺炎球菌ワクチン、昭和37年から53年生まれの男性の風しんワクチン、子宮頚がんワクチンのキャッチアップ接種、帯状疱疹のワクチンなどなど。テレビでCMが放映されているものもあり、診察の合間に患者さんからそれらについて質問されることが増えた。コロナ以降みんながそのような予防方法に敏感になっているのかもしれない。
ワクチンが天然痘との戦いで生まれたことはよく知られている。ジェンナー以前は免疫獲得のために健常者の皮膚に傷をつけそこに天然痘患者の皮膚病変から採取した抗原物質を含む膿を擦り込むinoculation(variolationとも)が行われていた。弱い病原体に感染させれば軽い症状で免疫を獲得できることを期待して行われたのだ。inocula はラテン語で「芽を植え込む」という意味で日本語の「接種」の語源にもなっている。
当時は他に方法はなかったのだがこの方法はその安全性に問題があった。接種後重症化して亡くなったり後遺症が残ったり、梅毒や肝炎など提供者が持っている別の感染症に罹患してしまうこともあったようだ。天然痘の致死率が30%だと考えるとそれでも許容範囲内のリスクだったのかもしれない。
乳搾りの女性たちが牛痘に罹ると軽い症状だけで済み、その後は天然痘に感染することがなくなる。そんな話を耳にしたイギリスのエドワード・ジェンナー医師は1796年のある日、牛痘に罹った乳搾りの女性の皮膚病変から採取した膿成分を8 歳の男の子に接種した。そして6週間後にその男の子に天然痘を接種したところ男の子は天然痘に罹患することなく無事に済んだのである。
それを確認したジェンナーはその後も同様の実験をさらに22名の方に行い、その成果を『An Inquiry into the Causes and Effectsof the Variolae Vaccinae』(牛痘の原因および作用に関する研究)と題した小冊子にまとめ、1798年に自費出版で発表したのだ。
―余談になるが当時は広く流通している医学雑誌や科学雑誌はなく(例えば『Nature』誌の創刊は1869年)このような発表は自費出版で行うのが一般的だった。
しかしあらためてとんでもない人体実験を行ったものである。今なら医師免許剥奪だ。被験者がみんな無事でよかった。
ジェンナーがこの時使用したのが牛痘、つまりvariola (種痘)+ vaccinae(牛の) だったことからいつしかそれを略して抗原物質を含む接種液をvaccine(ワクチン)、そしてこの手法をvaccination(ワクチン接種) と呼ぶようになりそのまま定着して現在に至るのだ。
ところが驚くことに最近の検証でジェンナーが少年らに接種した膿は実は牛痘由来ではないということが判明したのである。どうやらジェンナーが膿を採取した乳搾りの女性は当時牛痘ではなく馬痘に罹患していたようなのだ。結果的にそれでも天然痘の予防になったので臨床的には問題はないわけだがその事実を知って個人的になんとなく引っ掛かっていることがある。
vaccine とvaccination という表現が牛痘由来だから定着したというのなら、それが実は馬痘だったと判明した時点で表現を訂正・変更すべきではないだろうか。
ラテン語で「馬」はequus そして「馬の」はequina(エクィナ)。すなわち馬痘はvariola equina
である。すると理屈からすればvaccineはすなわちequine( エクィン) となり、vaccination はequination( エクィン接種)と改めるべきなのだ。機会があれば今後この考えをどんどん広めていこうかと思う。
でも過去に大西洋を渡ったコロンブスがインドの東(アジア)に到着したと勘違いしてアメリカの原住民をインディアンと呼び、それが間違いだと判明しても長らくその呼び方が定着していたことを考えると「ワクチン」の改称はそう簡単に行かないかもしれない。
― バカじゃないの?
飲み会なんかでみんなにこんな話をしたらそう言われるかもしれないがその時はしれっとこう答えるつもりだ。
― ええ、vacca(牛)じゃないんですよ。