わが姓の由来など、など
来間 平八
私の姓は「来間」。ちょっと変わった姓であるだけに困った経験が多々ある。その第一は、「何と読むのですか」と尋ねられることである。でもこれはごく当たり前のことなので気にならないが、読み間違いされると本当に困ってしまう。大学に通っていた時、教授に提出した受講票で出席確認の点呼をされた際、「ライマ」とよばれた時は自分だとは気付かなかった。その経験から、受講票の氏名には必ずフリガナをつけるようにした。現在でも通販等で電話で注文する時「漢字でどう書くのですか」と問われることが多い。困ったことの第二は、ツアー旅行で自己紹介する時「クルマと言います」と名乗ると、「寅さんと関係があるのですか」と言われることがあった。映画「男はつらいよ」の車寅次郎の姓と同じと勘違いされた質問であるので、同じクルマでも「車」ではなく「来間」だと説明を余儀なくされてしまった。変わった姓なので、名乗っている人が全国にいるのかどうか興味を持ったことがある。今のところわかっているのは島根県出雲市の一件だけである。出雲市にある生姜糖を売る土産店が「来間」を名乗っているという。(私自身が直接調べたわけではなく、知人が出雲市を訪れた時それを知り生姜糖を買ってきてくれたので、それを知ったわけである。) テレビでボクシングの試合を観ていたら、「クルマ」という選手が出ていた。しかし姓を確認したら「来馬」で、私の姓とは違っていた。旅行で沖縄の宮古島に行った時、「来間島」を訪れた。離島対策費で宮古島との間を結ぶ橋として建造したという美しく、長い橋を渡って期待して訪れたのだが、何と「クリマ島」だったのでがっかりした。 ところでなぜこのような変わった姓を名乗るようになったのか、その由来を古老に尋ねたことがある。古老の話では、「来間」を名乗った最初の先祖は武田信玄の家臣で侍医をしていた大森某という人物だったという。 時は群雄割拠の時代で、甲州の虎と称された武田信玄も勢力を伸ばしたが、雄途むなしく病で死んだ後、二男・勝頼が後を継いだ。そして父同様に覇権を狙い、天正三年(一五七五)軍を起こしたが、織田信長、徳川家康の軍に三河国長篠での戦で敗れてしまった。その時武田軍団と称された家臣たちは皆散りぢりになって各地に落ちのびた。そのとき、わが祖先の大森氏もはるばる秩父山地を越えて、武蔵国大里郡の大ヶ島に落ちのびた。 大ヶ島は、むかし荒川が利根川に流れこんでいた時の三角洲の島の一つである。当時三角洲を形成した島が全部で八島あったので室むろの八島」と呼ばれたと『武蔵風土記』に載っていたということだが、この八島の最上流部にあった島が大ヶ島 である。ただこの時代には、もう島ではなかっただろうと思う。 それから七年後の天正一〇年(一五八二)に勝頼は信濃国の木曽義昌が信長に通じているとして軍を起こすことを企て、各地にいた旧臣たちに召集をかけた。わが大森氏もその号令に応じ、秩父山地越えで甲州に向かった。しかし甲州に到着した時には主君の軍は織田・徳川勢に敗れた後だった。敗れた勝頼の前に平伏した大森氏に対し、何故遅れたのかと勝頼は怒って叱責をした。それに対して彼は「秩父の山越えなので間に合うように来る間がなかったのです」と言い訳をしたという。 そして再び大ヶ島 の地に戻った先祖は、多くの落武者がやったように、自分を隠すために姓を変える必要に迫られた。そこで選んだのが、来る間がなかったと言った主君への言上にちなみ、大森姓から来間姓に改姓したということだ。 この話は誠にうまくできているが、その真偽の程は保証できない。しかし熊谷付近には松崎姓を名乗る家などを始め武田軍団ゆかりの家があることを考えると、あながち作り話として片づける訳にはいかないと思う。 現在、大ヶ島(小字名になっている)に住む来間姓の家は七軒で「しょうやんち」を中心に「来間一家」を構成している。元総本家は没落して屋敷はないが、跡地には古井戸と朽ち果てた数基の墓石、それに氏神社(近年立派な社に造り変えた) だけが残されている。その他各地に来間姓を名乗る人がいるが、いずれもこの一家から出た人たちである。 いま、それぞれが名乗っている姓(名字)には、みな何らかの由来があり、また歴史があると常々思っている次第である。