挑戦、アルトサックス

中山泰山 

地元の大ホール、八百人ほどの観客の前でついに私の出番が来た。友人のテノール歌手とプロのピアニストがカンツオーネなど、美しい曲で魅了し続ける中、一介の老人が入り込んだ、そんな感じであろうか。七十三歳の時である。
私の演奏曲目は「ゴッドファーザー・愛のテーマ」と「慕情」である。誰でも知っている世界的に有名な曲だ。彼が一番の歌詞後半に入ると、私はおもむろに舞台中央へ出て間奏部分を奏でる。スポットライトが私を照らす。僅かな時間だが責任は重い。私は猛烈に練習し、暗譜で奏でた。プロのミュージシャン気分だった。そして・・・
無事終わったか?と思われた最後の一瞬、気が緩んだのか、楽譜にはない妙な音が出てしまった。失態である。会場から笑いが漏れた。歌い終えた後、歌手が解説、漫談のようなその絶妙な語り口に更に大きな笑いが起こった。私も照れ笑いで応えた。舞台慣れした私は観客と一緒になって笑っていた。
大きな拍手の中、深々と頭を下げ、歩き出したその時、前列にいた女性が私に花束を差し出した。寒冷紗らしき袋に覆われた、真っ白なシクラメンの花であった。この女性は絵画の仲間だった。
会場には息子と私の再婚した妻とその母親、姉妹が来てくれていた。我が人生の小さな一ページを感動で包んでくれた。
「挑戦を止めた時から老いが始まる」私の長年のモットーである。妻を亡くし、一人生活を始めてから間もなく、思い立って管楽器に挑戦することにした。アルトサックス、小生七十歳の時である。寂しさを紛らわす意味もあっただろう。振り返れば学生時代から今日まで、楽器はギターをはじめ弦楽器ばかりであった。
私はまず本屋でサックスの教本を買い勉強、その後東京・お茶の水へ出かけた。ここは有名な楽器店街である。素人の私は店の説明に思案、結局中古品を買った。当時はまだ続ける自信がなかった。その後、上手くなるに連れて音色に不満を抱き、新品に買い替えた。

熊谷駅脇に出来たビル内に楽器店があり、その一角にはレッスン教室がある。私はここで三か月間、さらに市内の楽器店で二か月間
先生に教わって独立した。この楽器は大音量、我が家では奥の部屋で練習を重ねた。サックスの楽譜は「サントワマミー」「モナリサ」「虹の彼方に」など、大半がピアノの楽譜をモデルに自分で作成した。好きな曲を作っていくうちに、いつしか楽譜は百曲近くに
なっていた。

演奏を披露する場としては、まず熊谷駅近くの居酒屋がある。ここのママさんはシャンソン歌手、趣味で長い間東京の教室に通って
いる。そして年二回、十五人の音楽好きが集い、それぞれ得意の音楽を披露している。参加者はほぼ同年代、私も練習成果を気兼ねな
く披露した。も一つは本庄市内のあるレストランの二階。ここでは朗読やバンド演奏、歌や楽器演奏などの楽しいイベントを開催、私
も参加した。主にはギターかウクレレ&歌であったが、サックスも披露した。
いずれも友人の紹介で、合わせて年に五、六回程度だが、音楽好きな仲間十数名が集まっての気楽で楽しい空間であり、交流を楽しんだ。残念ながらコロナ・ウイルスが蔓延してからは中止、まだ再開していない。

時が経ったある日、会社の後輩から私に電話があった。「中山さん、サックスまだやっていますか?」、彼は私の舞台を見に来てくれていて、自分も始めたいと漏らした。その頃私はサックスから離れていたので譲渡を快諾した。
数日後、彼は我が家を訪ねて来た。私は後を彼に託す事はすでに決めていた。サックスとそのケース二つ、マウスなどの部品、メン
テ部品、教本・楽譜本、そして手作りの楽譜十数冊を渡した。彼は想像以上のプレゼントに恐縮していたようだ。最後に「君が演奏す
る時が来たら、私に知らせることを約束してくれ」と頼んだ。いつの日か私が蘇える、空を仰いで私は数年先を想像していた。
そして数年後、彼から私のスマホに映像が届いた。仲間との演奏風景であった。もう少し、がんばれ! 楽しみが近づいてきた。

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