私のおすすめ本
米山長七郎
「ビブリオバトル」という知的ゲームがあるそうだ。 読んで面白かったと思う本を持ち寄って集まり、一人五分ずつ自分の本を紹介し、最後にどの本が一番読みたくなったかを投票して最多票を集めた本をチャンプ本とする遊びだという。
熊谷でも数年前に市民活動支援センターで開催されたことがあったようだ。 もし、私がビブリオバトルに参加するなら持っていきたい本がある。
『チャリング・クロス街八四番地』
(ヘレン・ハンフ著・江藤淳訳・一九八四年・
中公文庫)
一九四九年から六九年までの二十年間にわたって、アメリカのシナリオ・ライターの女性とイギリスの古書店の男性との間で本の発注をめぐってやり取りされた手紙を並べた、ただそれだけの本である。
しかし、文庫本で二百三十頁ほどのこの本は、一読するとある種の感動に衝き動かされること請け合いの不思議な心温まる交流の記録である。
女性はヘレン・ハンフ、一九一六年生まれのテレビドラマの台本書きで、最初の発注の手紙を書いた時は三十三歳で独身だった。
一方、注文を受けるロンドンの古書店「マークス社」の店員フランク・ドエルは三十代後半、本の仕入れ担当で再婚だった。
ヘレンは大学教育を受けていないが十代の頃から図書館でイギリスの古典文学、歴史物、随想録、名詩集などを濫読した無類の本好き。アメリカの安っぽい新刊本に飽き足らず美しい装丁のイギリスの古書を手元に置くことを無上の歓びとする女性だ。 ヘレンが最初にロンドンへ本を注文したのは第二次世界大戦が終わって四年後の秋のことだった。
一ヶ月後に美装本を手にしたヘレンは、同じ戦勝国のイギリスの食糧事情が配給制で、肉は一世帯当たり週に六〇グラム、卵は一人月に一個と極端に悪いことを知り、クリスマス・プレゼントとしてマークス社の店員全員に渡るようにとハム三キロなどを小包で送る。春の復活祭にもヘレンは、缶詰や卵を送り、マークス社の女性店員らから感謝の手紙を受け取る。
ヘレンの小難しい注文と、それに応えて古書を探し、送り届けるドエルとのやり取りはビジネスライクなものから次第に親密なものへと変わっていく。
英文学についてまったく疎い私には、往復書簡に出てくるウィリアム・ハズリットやリー・ハント、クイラー・クーチーなどの文人たちの名前も書名もチンプンカンプンだったが、ふたりの心のかよったやり取りに惹きつけられて夢中で読み進めた。
ニューヨーク娘のヘレンの文体は開けっぴろげでズケズケとした物言い。一方、生粋のイギリス紳士のドエルの文体は丁寧で抑制の利いたウイットとユーモアに富んでいる。
私がドエルの手紙で一番うれしく読んだものは、一九六五年八月のもので、「実は私もビートルズが好きです。ファンがあんなに絶叫しなければよろしいのですが」
と書いてきている。
しかし、この本ではこれが晩年の手紙になっていて、ドエルは一九六八年のクリスマスの三日前に急病で帰らぬ人となった。
私はこの本を最初に読んだ一九九二年に父の臨終に立会っても涙が出なかったのに、ドエルの同僚の女性が彼の死をヘレンに伝えてきた手紙を読んでいて涙が浮かんできて驚いたことを覚えている。
ところで私はこの本を最初はFUTURA 社のペーパーバックで一九九二年に読み、江藤淳訳の中公文庫版は二〇〇〇年に読んだのだった。 江藤訳は完璧だが、完璧すぎてヘレンの軽妙な米語の文体を日本語で再現できているとは思えないところも散見された。
例えば十二月に出した手紙の結びにヘレンはたったひと言Noel と書いているが、江藤はこれを「よいクリスマスをお迎えください」と上品に意訳している。
ペーパーバック版には、ドエルの生前には会えなかったヘレンが初めてロンドンに行き、ドエルの家族に会うとてもいい後日談も載っている。私としてはペーパーバック版の方をおすすめしたいところだ。