次の青信号
米山長七郎
「熊谷中學時代」という熊谷高校の前身の熊谷中学の同窓会誌と「階段教室」という熊中同窓誌の第三号と四号が手許にある。前者は昭和十一年に、後者は昭和三十九年と四十二年にいずれも第十回卒業生が中心になってつくったものだ。
この三冊は私の熊高時代の恩師宮崎利秀先生のご子息徹さんからいただいた。
第十回卒業生といえば熊谷高校の前身態谷中学校を明治四十二年に卒業した人達で漱石の「坊っちゃん」のモデル弘中又一先生の教え子でもある。
「熊谷中學時代」を出した昭和十一年に彼らは四十代半ば、「階段教室」を出した昭和三十九年と四十二年には七十代半ばになっていたはずだ。
「熊谷中學時代」の名簿には医師が何人もいるのが目立ち、弁護士も校長も収入役もいる。海軍の大佐が二人いて、朝鮮にも台湾にもニューヨークにも上海にも卒業生が進出している。
近況を随筆風に寄稿している卒業生も多い。中でも私がいま住んでいる玉井出身の小林重平氏の「上海の同窓生」は出色だ。
貿易会社の上海支店に勤める小林氏が世話役となって、いずれも上海に転勤してきた郵船の堀氏、商船会社の立花氏、大倉組の今岡氏、同文書院の掛川・飯塚氏らが上海熊中会と称して濃密な交遊を楽しんでいるところへ海軍の今井氏が軍艦の滞留中に顔を出す話など、日華事変の前にこんなにも長閑な時があったのかと驚きと羨望さえ覚えさせる。
敗戦後二十年も過ぎて、現役を退いた十回生が出した「階段教室」の第三号に「物臭人生服大尽」という寄稿があった。
変わった題名に惹かれて読んだ。期待に違わず「坊っちゃん」のように歯切れがいい。作者は上海に軍艦で立ち寄った頃は海軍主計大佐だった今井三二氏。
エリート海軍士官で颯爽としていたであろう井上氏も敗戦後は職業軍人だったため、「八年間恩給を止められたばかりか、世の憎しみを全面的にひっかぶり、殆ど糧道を絶たれたのには参った」という
「衣類は終戦後一切新調しないで有り合せの物で間に合わせて居るし、家屋も庭も一切手入れを行わず、庭は自然の藪となり、時々野鳥のりが聞かれる」とさっぱりしたものだ。その結果の健康法、長寿法がとぼけている。
「空腹を感じれば腹を満たすが食事は毎日腹八分目。薬は殆ど飲んだ事無し。血圧測定も蛋白や糖の検査も曽て行わず、他人から健康体と見受けるが、如何なる長寿法を実行しているかと度々尋ねられるが、戸外に出たら自動車に気を付けて居ると答えるのが常だ。」この後が面白い。
「大通りではなるべく青赤号所を渡る事にして居るが、其処に到達した時青信号ならば、一旦赤に変って更に青になるのを待つ事にして居る」
黄色号をあわてて小走りに渡る私などには倉じられない元海軍将校の悠々たる英姿である。
さらにおとぼけは続く。
「自転車に乗れないので親譲りの両脚に頼っている。
何事によらず万事消極的で、随って人の頭に立って長となる勇気は無いし、なるべくしらばくれて骨を折らない事をモットーとして居る」
その後、ペンは道楽に及ぶ。
「書画の鑑賞と云う道楽を一つ持っている。
之が又物臭人生には最適で、他人の品を見せて貰ったり、安価の古書画を極く稀に買う位で金は余り掛からない。
書画の鑑賞は見たければ出して見るし、飽きれば仕舞うだけの事だ。買った物は皆戸棚へ放り込んで置くだけだから少しも厄介にならないし、誠に物臭人世に誂え向きだ。
真贋に付ては一切無頓着だから、随って署名捺印に付ては一切重きを置かない。唯筆意と味合に付ては聊か研究に意を用いて居る」
と続く。
そして最後が何ともいい。
「物臭人生では、時間は久伸し切れない程有り余って豊富だ。時は金なりと云う格言がある。してみると吾々の物臭人生は当世巨億の富豪と云えるかも知れない。エヘン!」と威張って終わっている。
まさに達意の人生だったのではなかろうか。